新説・日本書紀㉒ 福永晋三と往く
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2018年(平成30年)11月10日 土曜日
この時、豊国では亡き仲哀天皇の先の皇后大中津姫との間に生まれていた香坂王と忍熊王(日本武尊の孫)が軍を構えて、帰朝した神功を撃とうとしていた。 日本武尊の孫を滅ぼす
東鯷国から率いてきた直属の軍と合流した神功は、御所ケ谷山城に籠る二王の討伐に向かう。二王は菟餓野(京都平野)に出て戦うが、兄の香坂王が「赤猪に食われて」殺される。火攻めに遭ったか。忍熊王は軍を引き、住吉(未詳)に駐屯するが、これも撃破される。再び軍を引き退却、菟道(香春町宮原)に到り軍備を整える。この際に越えたのが仲哀峠であろう。3人目の仲哀となる。 3月、武内宿祢・武振熊に命じ、数万の軍を率い、忍熊王を撃たせる。武内宿祢らは金辺川の北に陣を構えた。宿祢は兵士に「髪の中に予備の弓弦を隠し、木刀を帯びよ」と命じた。忍熊王には、「君王に従います。戦いません。共に弓弦を絶ち、刀を捨てて和睦しましょう」と呼びかけた。兵に弓弦を断たせ、刀を川に投げ捨てさせた。忍熊王も軍に命じて同様にさせた。途端に、武内宿祢は全軍に弓弦を張らせ、真剣を帯びさせ、川を渡って忍熊王の残軍を斬り殺した。精兵を出し忍熊王の残軍を逢坂(香春町柿下大坂)に破る。逃げ場を失った忍熊王は「齋多(飯塚市勢田)の済」で腹心の家来と入水自殺を遂げる。 武内宿祢は忍熊王の屍を執拗に探させるが見つからない。数日経って遺骸が菟道河(金辺川)に浮かんだ。宿称は「淡海の海 齋多の済に 潜く鳥 田上過ぎて 菟道に捕へつ(遠賀の海の勢田の渡し場に潜った鳥よ、忍熊王め、田上を過ぎて宇治川でとうとう捕まえたぞ)」と歌った。武内宿祢は忍熊王の死骸から「草薙の剣」を剥奪したようだ。日本は一旦滅亡した。 次回は12月8日に掲載予定です