新説・日本書紀㉒ 福永晋三と往く
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2018年(平成30年)11月10日 土曜日
神功皇后⑥ 豊国に戻り皇位を争う
香坂王と忍熊王の反逆
357年冬10月に新羅征伐に出た神功は、12月ごろ筑紫の姪浜に帰還し、14日に宇美八幡宮の地で応神を出産した。この地はかつて神武天皇の家来である荒木武彦の女志津姫が蚊田皇子を出産した「蚊田の里」でもある。したがって、「応神」という諡号はあるいは「神武に応じる」という意味で、新王朝の創始者を暗示しているのではなかろうか。
この時、豊国では亡き仲哀天皇の先の皇后大中津姫との間に生まれていた香坂王と忍熊王(日本武尊の孫)が軍を構えて、帰朝した神功を撃とうとしていた。
神功は乳飲み子をショウケ(背負い籠)に入れ、峠(ショウケ越)を越え、大分八幡宮(飯塚市大分)で軍隊を解散した。曩祖八幡宮(同市宮町)で将士と別れの宴を催し、綱分八幡宮(同市綱分)で宝剣を奉納し、日若神社(同市多田)の霊泉で禊をし皇子の将来を祈った。
次いで、位登八幡神社(田川市位登)で皇子と共に半年滞在した。これは書紀と合わない伝承である。さらに、川崎町池尻の大石神社末社の帝階八幡神社御由緒には、「応神は七歳まで橿日宮に成長し、位登宮古跡である宮ヶ坪の近く、式部迫の地で皇太子ご即位式を執行された」とある。書紀と相当に矛盾する。
位登宮から赤村太祖神社を経て、神功は京都郡みやこ町の生立八幡神社に到る。ようやく京都郡の難波に出た神功は、御所ケ谷神籠石に拠る香坂王・忍熊王の警戒網をくぐり、書紀によれば358年春2月に穴門の豊浦宮に帰還した。
日本武尊の孫を滅ぼす
東鯷国から率いてきた直属の軍と合流した神功は、御所ケ谷山城に籠る二王の討伐に向かう。二王は菟餓野(京都平野)に出て戦うが、兄の香坂王が「赤猪に食われて」殺される。火攻めに遭ったか。忍熊王は軍を引き、住吉(未詳)に駐屯するが、これも撃破される。再び軍を引き退却、菟道(香春町宮原)に到り軍備を整える。この際に越えたのが仲哀峠であろう。3人目の仲哀となる。
神功は群臣とはかって小竹宮(小竹町、所在未詳)に移る。
3月、武内宿祢・武振熊に命じ、数万の軍を率い、忍熊王を撃たせる。武内宿祢らは金辺川の北に陣を構えた。宿祢は兵士に「髪の中に予備の弓弦を隠し、木刀を帯びよ」と命じた。忍熊王には、「君王に従います。戦いません。共に弓弦を絶ち、刀を捨てて和睦しましょう」と呼びかけた。兵に弓弦を断たせ、刀を川に投げ捨てさせた。忍熊王も軍に命じて同様にさせた。途端に、武内宿祢は全軍に弓弦を張らせ、真剣を帯びさせ、川を渡って忍熊王の残軍を斬り殺した。精兵を出し忍熊王の残軍を逢坂(香春町柿下大坂)に破る。逃げ場を失った忍熊王は「齋多(飯塚市勢田)の済」で腹心の家来と入水自殺を遂げる。
武内宿祢は忍熊王の屍を執拗に探させるが見つからない。数日経って遺骸が菟道河(金辺川)に浮かんだ。宿称は「淡海の海 齋多の済に 潜く鳥 田上過ぎて 菟道に捕へつ(遠賀の海の勢田の渡し場に潜った鳥よ、忍熊王め、田上を過ぎて宇治川でとうとう捕まえたぞ)」と歌った。武内宿祢は忍熊王の死骸から「草薙の剣」を剥奪したようだ。日本は一旦滅亡した。
次回は12月8日に掲載予定です
忍熊王の逃走図。田中和典氏作図
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